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指宿 菜の花 通信(No307) 田舎医者の流儀(282)・・・廃仏毀釈

 私は坊津町坊の出身で小学校は坊泊小学校を出た。この学校は一乗院跡地にあり、校庭には仁王石像一対や一乗院の歴代上人の墓などが残っていた。一乗院(いちじょういん)はかつて存在していた真言宗の寺院。寺伝等によると百済の僧・日羅の建立とされるが、実在がはっきりするのは南北朝時代からである。紀伊国根来寺の別院、後には京の仁和寺の別院として栄えたが、その背景にあったのは坊津が古代から大陸との貿易港として重要な役割を果たしていたことが挙げられる。戦後の発掘調査で一乗院跡地から大量の中国陶磁器が出土したことから見て、一乗院もその貿易に関与していたことが考えられる。

 江戸時代に入ってからも藩主である島津氏の尊崇を受け、藩内屈指の有力寺院であったが、明治2年に廃仏毀釈により廃絶。現在は小学校跡地に仁王石像一対や一乗院の歴代上人の墓などが残っている。仁王石像は廃仏毀釈の際近くの谷川に廃棄されたが村人が今の場所に引き上げ設置したと聞かされている。上人墓は「四角墓」と呼ばれる石組みの井戸のような日本には余り例のない特殊な形式をしている。また、難を逃れた寺宝の一部は坊津歴史資料センター輝津館に所蔵されている。一乗院を中心にして集落があり私の住んでいた集落は上中坊、その周りに上の坊、中坊、坊の浜などの集落がある。

 私は長い間、なんで名刹一乗院を壊してしまったのか疑問に思っていた。最近、「廃仏毀釈はなぜ起きたのか」という本を読む機会があった。「そもそも廃仏毀釈とはなにか、仏法を廃し釈迦の教えを棄却するという意味」「薩摩藩の廃仏毀釈が日本中で最も徹底して実施された。最初に薩摩藩で廃仏毀釈を建議したのは若手の一部の藩士たちであったが、その建議が当時の時勢に合致したことにより瞬く間に広がり、あっという間に藩を挙げて徹底した廃寺が実施される事になった」「明治政府はスタート時点で神武創業をスローガンに掲げた。不安定な政治基盤を天皇を前面に出すことにより強化しようと考えた」「当時の薩摩藩では国学が流行し藩士らの中に廃仏的世風が一定程度拡がっていた」。そんな背景で廃仏毀釈が徹底されたと言われている。  

 それにしても、薩摩半島のはずれ、南端にあった一乗院まで壊さなくても良かったろうにと思う。京都、奈良には大きなお寺さんが多く残っている。いずれも日本人心の支えになってきた。その時の政治事情で文化遺産は破壊されてはならない。私の田舎にこの寺が残っていたら、我々の心の支えになり、また大きな観光資源になったろうにと本当に惜しい気がしてならない。 
(廃仏毀釈はなぜ起きたのか 栗林文夫 山川出版社)

令和8年9月25日

国立病院機構指宿医療センター 総合内科
 中 村 一 彦